本年、株式会社ムラカミは創業100周年を迎えます。
これもひとえに皆様方の温かいお心遣いとご支援の賜物と、衷心より厚く御礼申し上げます。
1907年(明治40年)に九州の福岡から創業者である村上和三が13歳で北海道に渡り、1925年(大正14年)独立開業して株式会社ムラカミの歩みが始まりました。北海道の風土に育まれて100年、この間、幾多の環境の変化が訪れました。その度に、人との出会いに助けられ数多の困難を乗り越えてまいりました。
“人は城、人は石垣、人は堀”と申します。これからも私どもは「人」との出会いとご縁を大切にして歩みを進めて参ります。
100周年は、単なる通過点に過ぎません。当社及び当社グループ社員一同はこの北海道の風土を誇りとして、次の100年に向けて新しい価値を創造し、社会に貢献してまいります。
今後とも、格別のご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
守る=伝統を守り
壊す=新たなステージへ挑戦し
創る=人との繋がりや価値を創造する
弊社の企業理念「守って 壊して 創る」。
そして100周年の想いを
ロゴに込めております。
コーポレートカラーである青から赤に変わるグラデーションには
「変革や挑戦への想い」を
“100”の数字には地球をモチーフにあしらい、これからの展望である
「グローバル展開への想い」を
地平線には、100年を迎え更に150年、200年へとこれからのムラカミが描く
「成長と発展への想い」を
そしてコーポレートロゴである“M”には
「人と人とが支えあう想い」を込めました。
脱亜入欧、殖産興業、富国強兵。
明治維新以後、大久保利通の
殖産興業政策に代表されるように
我が国は官民挙げて西洋に学び、
失敗と成功を重ねながら
近代産業の礎を築き上げました。
多くの近代化事業が興される中で、
麻製品の国産化は急務でした。
先人の努力により国産化された麻製品は、
生活の欧米化を支え、
また二度の対外戦争(日清・日露)の
勝利につながるものとなり、
その結果、日本は文化や工業技術など
様々な分野で西洋諸国と対等な立場に
なるまでに発展を遂げました。
製麻工場建設や近代製麻業の発展という
困難な課題に挑み、
製麻業の尽くした人々のストーリーには、
豊前国京都郡黒田
(福岡県京都郡みやこ町)と
北海道札幌を繋ぐ「麻の道」が
ありました。
豊前国上田村(現福岡県京都郡みやこ町勝山上田)に生まれました。
長じて上京し、内務省職員として国策である殖産興業政策に携わります。特に生活スタイルの急速な西欧化や軍事装備品に不可欠な麻製品の工業化が急務として、彼はフランスに渡り、その栽培法から生産工場関連の技術について寝食を忘れて学び、わずか三年でその技術を習得しました。
帰朝後、政府による新たな工場建設の規制などの困難な状況の中、近江(現在の滋賀県)に日本初となる製麻工場を建設します。その後も栃木県、北海道に製麻工場を建設し、日本の近代製麻業の発展に尽くしたことから、「日本製麻業の父」と呼ばれています。特に北海道の工場建設の際に実施した事前調査をまとめた報告書「北海道紀行」は、その後の北海道における農林水産業の発展や土地開発などの参考図書として重宝されました。
しかしフランス滞在における無理がたたり1892年に僅か42歳の若さで逝去しました。
彼の弟、吉田増蔵は、今年100年を迎える元号「昭和」や、上皇陛下の名前・称号を考案した人物としても知られています。
当時の北海道製麻 役員たち
豊前国黒田村(現福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)の庄屋に生まれ、24歳の時に親戚の吉田健作を頼り上京して農商務省勧農局に勤務します。
1880年に北海道紋べつ村(現在の伊達市)の製糖工場に赴任し、近江の製麻工場設立の際には、吉田健作の依頼により工場建設監督官として参画します。その後、北海道製麻会社の設立にも工場建設主任として携わりました。
1891年に同社を離職後、欧米農法を学ぶため外遊します。帰朝後は、札幌東区に居住し、ここを拠点として道内各地を開墾し、手広く営農業を興しました。
また札幌区議会議員などの要職も務め、道内には宮村の名前が付けられた地区や神社、通りが今でも残ります。道内の農業振興や地域発展に尽くした彼の功績の大きさをうかがえます。
北海道製麻会社
弊社創業者の村上和三の叔父である村上道太郎は、豊前国黒田村(現福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)で生まれ、15歳頃に北海道に渡り設立間もない北海道製麻に勤めます。
ここで製麻技術を習得した彼は札幌市内に日本製麻を興します(1903年に近江と下野が合併してできた同名の会社とは別)。従業員は約30名で主に鰊網や畳糸を製造していましたが、材料の製線は縁のある北海道製麻から仕入れて加工していました。
後に帝国製麻の代理店が合併して興した合名会社札幌製綱所の経営に参画して専務を務めます。
大正時代には亜麻粗線を製造する東洋製線株式会社にも関わるなど様々な製麻事業に携わり重要な役職に就いていました。
1889年に豊前国黒田村(現福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)で生まれ、その後、北海道へ渡り、草創期の北海道製麻会社に勤務します。
工場稼働の翌年、不幸にも彼は作業中に誤って機械に接触する事故により亡くなります。17歳の若さでした。
余談ながら、彼が亡くなった年に宮村朔三は北海道製麻を辞しています。
当時の北海道製麻 役員たち
北海道製麻会社
北海道製麻会社の記録に「明治23年(1890)には本社工場が竣工、札幌、東京、鹿児島、福岡、大津の各地から募集した300人に及ぶ男女職工により全作業を開始した」という記載があります。この300人の中に魯吉が含まれていたと考えられますが、彼は工場の建設中に北海道製麻会社に就職しているので、職工では無く宮村朔三の下で機械の設置作業などに従事していたのかも知れません。
製麻工場の建設では、欧州に派遣された吉田健作が買い付けた製麻紡織機の据え付けを宮村朔三が監督官として行っています。あくまでも推測ですが、宮村朔三の下に道太郎や魯吉といった黒田村出身者が一つのチーム(組)として宮村朔三を支えていたとも考えられます。
札幌製網所古写真
創業者・村上和三は、
1907年(明治40年)13歳の時に
福岡県京都郡黒田村
(現在のみやこ町勝山黒田)から
北海道へと渡ります。
札幌で製麻業を営む
叔父の道太郎を頼ってのことでした。
当時の北海道は開拓の息吹が残っていて、
国策で興され官営から
民間に譲渡された事業や
産業が数多く稼働していました。
中でも製麻業は土地の優位性もあり、
拡大の一途を辿っていました。
吉田健作、宮村朔三らが拓いた黒田から
札幌へと続く「麻の道」を
また一人、同郷の村上和三が歩み始めます。
和三は道太郎の製麻工場で働きながら夜学に通い、労を惜しまず仕事に打ち込みました。
その甲斐あって彼は麻(繊維)の目利きに成長します。それは後年、畑違いの会社に好条件で誘われたときに「麻なら僅かの布でも見分けがつくが他のことはよくわからないので」と断っているほどです。
当時は満二十歳で兵役義務がありました。和三は戸籍のある福岡県の小倉十二師団に入隊します。
彼は三年の兵役を中国の青島で過ごしました。
そして満期除隊を迎えた彼は再び札幌へ戻り、叔父の道太郎が関係していた麻糸の原料を作る東洋製線株式会社に勤めます。
北海道の主要産業へと成長した製麻業は道内各地に麻畑や製麻工場が作られ最盛期を迎えようとしていました。
叔父の下で働き、製麻業のノウハウを学んだ和三は一九二五年(大正十四年)、自ら紡績事業を興します。この時三十一歳。
札幌市北五条の借家で始めた村上和三商店は、帝国製麻製品の取扱い店として道内外に顧客を持ち、和三の誠実で正直な商いの姿勢は製麻会社最大手の帝国製麻の上層部からも大きな信頼を得ていました。
のちに現在本社がある桑園(札幌市中央区)に地所を買い工場を建てるなどして順調に業績を伸ばします。
太平洋戦争が終結し、ほとんどの国内産業が壊滅的な打撃を受ける中、和三は北海道の繊維不足の解消を標榜して室蘭に繊維工場を設立します。
しかし、戦後に吹き荒れた労働争議や技術者の不足などの諸問題が和三の前に立ちはだかります。
やがて懸命の努力も甲斐なく、事業を整理することになりました。これは和三にとって最大の苦難であり、彼は後年にこう書き残しています。「涙と共にパンを食べた人でなければ、当時の私の心情を解することは出来ない」
当時の苦しい心情がしのばれます。
多くの苦労を乗り越えた和三は商いの心構えを十一箇条にまとめています。中でも以下の二つは、誠実さと努力で物事にあたる彼の姿勢を表しています。
一、何事も身を捨てて物事にあたること
一、何事もやれば出来るという信念
繊維業一筋に不撓不屈の精神で生きた和三の生涯。
村上和三商店から村上繊維工業株式会社、そして株式会社ムラカミと社名は変わりましたが、和三が遺した商いの心構えは今この時にも生きています。
ムラカミビル三階の事務所へと続く階段を
ゆっくり、しっかりとした足取りで登っていく。
村上忠三は齢90を過ぎても
そうして会社に顔を出していました。
その姿を多くの社員が
昨日のことのように憶えています。
村上忠三は一九三一年(昭和六年)、札幌に生まれました。二男四女の四番目。村上家の次男として父の和三が三十七歳の時に授かった子です。
忠三が生まれた年に、中国東北部で柳条湖事件が起きます。いわゆる満州事変の始まりです。戦火の拡大と共に国内経済は戦時体制に移行し、軍需産業が経済の中心になります。特に麻製品は陸海軍が大きな得意先でしたので、その旺盛な需要に製麻業も活況に沸きます。一九三一年から一九三七年の日華事変に至る五年間は戦前の製麻紡績業の黄金期といわれ、記録では一九三三年の綿布輸出量が本場の英国を抜いて世界一位と記されています。
一九三七年を過ぎる頃から、長引く戦争の影響と欧米諸国との外交的軋轢によって日本は統制経済に移行せざるを得なくなります。政府による物資の統制と配給が始まり、自由な経済活動が難しくなりました。
この措置に対応すべく麻製品(綿帆布)を扱う業者が集まり「日本天幕雨具工業組合連合会」が発足します。これは各地の業者を地区ごとに集約して限られた物資の分配等を決めるという仕組みです。北海道地区は村上和三が尽力し道内をまとめました(関西重布会設立記念誌より)。
忠三の少年期はそうした時代でした。
やがて終戦。その翌年の一九四六年(昭和二十一年)に村上和三商店は村上繊維工業株式会社へと改組しました。個人商店から会社組織への転換です。
一九五四年(昭和二十九年)に立教大学経済学部を卒業した忠三は東京の廣瀬商会に就職します。廣瀬商会は和三の時代から親交のあった全国規模の繊維卸業者で、忠三はここで三年間修業しました。
また、この年は父の和三が室蘭に紡績工場を設立した年でもあります。エピソード1で触れましたが、一九五四年から一九六一年(昭和三十六年)は村上繊維工業にとって冬の時代と云えます。和三が決断して設立した室蘭の縫製工場は運営が思うに任せず、やがて整理する事態となりますが、東京から戻った忠三は社長である父の苦悩を間近に見ながら働きました。この経験が忠三の経営者としての姿勢に大きな影響を与えます。
当時の村上繊維工業(株)は国鉄やトヨタ自動車、郵政などといった大口向けに繊維製品を製造販売するほかに、戦前から扱っていた畳糸(麻)などの販売も行っていました。戦後、我が国の経済を支えた大きな柱の一つは繊維業界でした。当時は化学繊維をはじめとする新しい繊維が次々と誕生します。それに伴い麻製品は業界の中心から外れ始めます。
その頃、村上繊維工業は攻めの経営から守りの経営へと舵を切ります。室蘭工場の整理で負った痛手から会社を守り回復させる。それが最優先となりました。高度経済成長期とはいえ、その道のりは険しいものでした。そうした中、忠三は和三の片腕として会社の経営を補佐します。
一九七二年(昭和四十七年)、忠三は四十一歳で社長に就任します。翌年に起きたオイルショックなど、経済の変動期にあっても堅守の姿勢に変わりはありません。古くからのお客様を大切にしながらその要望に沿うように取り扱いの品数を広げ信頼を得ます。幸いにも札幌の中心部に近い桑園地区に地所を持ち、社屋や工場、倉庫といった堅固な資産が会社運営の大きな支えとなりました。
一九七六年(昭和五十一年)二月、父の和三が八十二歳で亡くなります。明治、大正、昭和と北海道の製麻業と共に歩んだ黒田村出身の最後の人でした。古い桑園地区の地図を見ると札幌競馬場の近くに「村上麻工場」と記されています。桑園の村上と云えば麻工場と云われていた時代がありました。
父であり創業者の和三が世を去って六年後の一九八二年(昭和五十七年)、会社の裏を通る鉄道の高架工事の影響もあり、古くなった施設を整理して本社社屋を新築します。更にその七年後、社名を株式会社ムラカミと変更して繊維の文字が社名から消えます。かつて、北海道経済を牽引した製麻業の隆盛は見る影もなく衰退していました。村上忠三は二代目として堅実に会社を守り抜き、次世代に繋ぐ意思を社名に込めたのでしょう。
今でもムラカミビルの大通り側に面した壁には「村上繊維工業株式会社」の看板は残されています。